矢越八幡宮と矢越岬

矢越八幡宮遠景 地名
矢越八幡宮遠景
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津軽海峡を挟んで二つの矢越が存在します。一方は道南福島と知内の境目、もう一方は下北半島の佐井にある矢越です。まるで双子のような矢越には、伝説や地名に多くの共通点がありました。

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矢越岬の地名

前回、矢越岬の地名由来について、ya-kus-i ヤ・クㇱ・イ→ヤクシ で、(沖に対して)陸の方・通る・処 と記しました。海岸にある岬を迂回して内陸側を通る所という意味で矢越という地名が生じましたが、いつしか岬の名前になり、当てられた漢字から色々な伝説が生じました。

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旅人の見た矢越岬

菅江真澄の『えぞのてぶり』には松前を出発して礼髭から船に乗り矢越岬へ通りかかる描写があります。

山背泊を経て矢越の山に近づくと、酒を提(木製のかたくち)にうつして、舳にたてて、この神酒を海の面にこぼして磯山の神をまつった。蝦夷の国から帰ってくるときは、どの船もしばらく帆をおろし、この矢越の山に向かって、蝦夷の国のアヰノが作った弓矢をみやげに持ってきて、矢を放ち奉る習慣がある。それで矢越の山の名があるのだという《矢越の山の神は、猿田彦の御神とも申し奉っている。舟の無事を祈り、弓矢を上の供物としてたむけた。また南部路左井の浦(下北半島の佐井)のほとりにも矢越という名があって、いわれはほぼ同じである》。

内田武志、宮本常一訳『菅江真澄遊覧記2』(平凡社、1966年)202頁

アイヌの作った弓矢をみやげにして矢を放つ習慣が記されています。また、ここに至って帆をおろし、酒で矢越の神を祭るなど航行安全のために祈りを捧げる海上交通の聖地だったことが伺えます。

また、松浦武四郎の『蝦夷日誌』には、

此所福島、知内村の境目也。岩石出岬。むかし南部佐井領の矢コシよりカモイ神矢を放ち給ひしが、此所に達するとかや云伝へたり。此辺波荒くして実に生るここちもせざるなれども、舷に靠て図をとるに、其岩石海苔にて色少しも弁じがたし。従イワヘ岬十八町此所を越る(や)否(や)箱舘山見ゆ。又向は南部の佐井、矢コシ岬よく見へたり。此辺りは山は皆樹木にて、爪を立べき暇も無用に見ゆ。

松浦弘「蝦夷日誌(抄)」『函館市史 史料編 第一巻』(第一印刷、1974年)138頁

波が荒くて生きている心地がしないとやはり海の難所を伝えていますし、南部の佐井矢越から矢を射てここまで届いたという話を取り上げています。南部の佐井矢越が良く見えたらしいですが実際はどうなんでしょうか・・・。菅江真澄や武四郎にとって南部佐井の矢越との関連性は常識的であったのかもしれません。どちらも矢が出てくるのが面白いですね。

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佐井の矢越岬

佐井の矢越も同様に海岸を避けて内陸を通る道になっています。スケールは大分小さくなりますがアイヌ語で言うところのヤクシと思われます。先学が指摘しているように、津軽や南部のアイヌ語地名と道南のアイヌ語地名は共通点が多く、同じ文化圏であったのでしょう。

矢越八幡宮の祭神

道南の矢越八幡宮の祭神は『知内町史』によれば、応神天皇、神功皇后、武内大臣とあり、明暦元年、蠣崎広林建立と伝えられています。では、佐井の矢越八幡宮はというと、箭根森八幡宮(現在の佐井八幡宮)から分祀されたといわれています。箭根森八幡宮はその名の通り、境内より箭根石(矢じり)が多く出土したことに由来するようです。また神社の伝説には、源義経の先祖である頼義が関係しているところも面白いですね。箭根森八幡宮の祭神を見てみると、応神天皇、神功皇后、比売大神、月読尊とあります。応神天皇、神功皇后、武内大臣はワンセットで考えられるので、それ以外の神に目を向けてみましょう。 箭根森八幡宮の比売大神は宗像三女神といわれるから、海上交通の神様であります。月読尊は月の神であるので、潮の干満を支配しやはり海上交通の神として祀られるでしょう。一方、道南の矢越八幡宮では、菅江真澄が猿田彦と言ってましたが、猿田彦は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を道案内した国津神で、陸上交通の道案内の神と知られているし、道祖神と結びついて境界の神とも言われています。当時は、どちらの矢越八幡宮も、交通の神として考えられているようです。 しかし、菅江真澄が猿田彦と伝え聞いていると言っていますが、どうもこの辺では塩竈神社の御祭神らしいです。

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