矢越岬(やごしみさき)の地名由来

矢越岬 地名
矢越岬
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知内町の小谷石へ向かっていくと矢越岬が見えてきます。小谷石の行き止まりの山のさらにその向こうに見える島のような山が矢越岬になります。

小谷石方面に向かう途中矢越岬が見える
小谷石方面に向かう途中矢越岬が見える

今は観光名所としてクルーズ船がでており、矢越岬や青の洞窟へと案内してくれます。現在では矢越岬に行くにはやはり海から船でいくのがベストでしょう。山越えとか・・・無理。今度クルーズを体験してブログにアップしたいと思います。

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クルーズ船看板
クルーズ船看板

矢越岬について調べていくと、大きく分けて二つの説があるようです。①伝説系、②アイヌ語由来です。まず、①伝説系から矢越岬の地名掲示板を見ていくと、

矢越岬由来掲示板~義経説で書かれている
矢越岬由来掲示板~義経説で書かれている

この岬には昔から魔人が住み着き、沖を通る舟人を悩ましていた。

津軽半島の相馬の浜(三厩)を舟出してえぞ地に向かった義経主従が矢越岬の沖にさしかかると風が吹きすさび海には荒波が立った。

この時、義経は八幡大菩薩に祈り、剛弓に矢をつがえて岬に向かって放つと波風はおさまり、主従はえぞ地に上陸することができた。

その後、ここは矢越岬と呼ばれるようになった。

矢越岬地名掲示板

荒ぶる魔人を剛弓一閃追い払ったのでしょうか。さすが義経御一行という感じですが、他にも伝説があるようで、更科源蔵氏の『アイヌ語地名解』を見ていきます。

知内町と福島町の境にある崎、この岬を境にして天候が急変するので、昔は船がこの沖を通るときには帆をおろし、岬に向かって矢を射かけたり、酒をあげ拍手をして通ったという。

 宝暦年間(1751-1763)荒木大学が福島の丘から武運長久を祈って放した矢が、この岬を越えて岩にささったので矢越岬というようになったとか、義経の蝦夷地渡海のとき、霧を吹いて渡海の邪魔をする魔神に矢を射かけて追払い無事についた。その時の矢が越した岬であるとか、永正(1504-1520)の昔、相原季胤がアイヌの娘を人身御供にささげたとか、伝説の多い岬であるが、北海道の各地にあるアイカㇷ゚(矢より上のもの、矢の届かないもの)といって、運だめしに矢を射た地名を訳したものである。

更科源蔵『アイヌ語地名解 更科源蔵著著作集Ⅵ』(みやま書房 、1982年)6-7頁

途中まで伝説系をガリガリ押し込みますが、最終的にアイヌ語由来を結論としてねじ込んで来ます。(笑)前半は「やごし」という音から想起される伝説ですが、最後のアイヌ語由来はもはや「やごし」という日本語的意味から想起されたアイヌ語になってます。(苦笑)

アイカㇷ゚という運試しに矢を射た地名を訳したと書いてますが、動詞の後についたりして「~できない」という意味になります。アイカㇷ゚地名は道内に「愛冠」などと処々に残っていますが、断崖であったりして矢を射かけても届かない伝説が残っています。荒木大学の矢は矢越岬を越えて刺さってますので、矢が届いちゃってますけど・・・(涙)

もし、アイカㇷ゚というアイヌ語地名が初めからあったら意訳されるより、他地域のようにそれに音に漢字を当てた地名で残っているでしょう。 アイカㇷ゚を意訳したら「矢越」では無く「矢不越」なんて地名が残っちゃうような気がします。(なんか「矢不来」みたいになったな・・・。)

やはりこれも初めにアイヌ語の音があり、それに相応しい漢字を当てたことでその漢字から想起された伝説が生まれたと考えるのが妥当でしょう。

小谷石の行き止まり
小谷石の行き止まり

山田秀三氏の著書を引用すると、

(前略)その前後の海岸は崖続きなので通行できない。海岸を離れて山越えをして、また向こう側の海岸に出なければならなかった。それでヤクシ(ya-kush-i 内陸を・通る・処)と呼ばれ、それが矢越になった。現在でも、街道、鉄道ともに、知内から内陸を上り、迂回して福島に出ている。

山田秀三『北海道の地名』(北海道新聞社 1984年)435頁

ya-kus-i ヤ・クㇱ・イ→ヤクシ で、(沖に対して)陸の方・通る・処のようです。鉄道松前線は廃線となってしまいましたが、国道は現在も内陸へ通っています。

「矢越」という字が当てられたため色々な伝説を生みましたが、海上交通の安全を祈願した場所のようです。次回は矢越岬と矢越八幡宮について少し深堀していきたいと思います。

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