前回の記事で上磯村のおこりと地名由来の謎をご紹介しました。時間が出来たので、その続きを紹介していきたいと思います。
渡島国7郡と上磯村の成立
戊辰戦争が五稜郭の戦いで終結し、明治政府は蝦夷地を本格的に統治するために、明治2年7月開拓使を設置します。本州同様、国郡里制が敷かれることになり、開拓判官であった松浦武四郎は五畿七道にならい蝦夷地の名称を、北加伊道(北海道)を合わせて6案を奏上します。同じように国郡名を奏上しますが、道南には渡島国が設置され、渡島国には亀田郡・茅部郡・上礒郡・福島郡・津軽郡・檜山郡・爾志郡の7郡が設けられます。
明治12年(1879年)4月30日、戸切地村と有川村総代人らが合同で「合併と村名付与」願書が出され、開拓大書記官時任為基は、この上礒(磯)郡名をもとにして上磯郡内にあった合併した村に「上磯村」という名を付与したと考えられます。本来地名は小地名から広域地名が命名されるのが大勢を占めていますが、上磯村の上磯は郡名という広域地名から拝借することになったのです。
武四郎がみた風景と上磯
では、上礒(磯)郡を奏上した武四郎はその名称をどこから持ってきたのでしょうか。
先日、7月26日の北海道新聞みなみ風に上磯の謎と題した学芸員レポートが掲載されていました。(※もともと道南ブロック博物館施設等連絡協議会に掲載されたブログ記事を抜粋して加筆修正して連載しているようです。)それによると、
(前略)つまり、後に「上磯村」と呼ばれる範囲は、ことごとくが開拓使が実際に郡を設置した際に付け足した地域であり、武四郎が構想した当初の「上磯(郡)」の外にあったのです。(中略)では、真に武四郎の見た「上磯」の源流はどこにあるのかーそのヒントは、武四郎が「上磯郡」の東界とした「矢不来境川」でしょう。矢不来から西、津軽海峡沿いに木古内までは、標高差30メートルを越す海岸段丘が続きます。武四郎は旅の途上、こうした段丘崖と磯の連なる海岸の風景を「平磯」と表現しており、これが後の「上(の)磯」の着想へとつながったのかもしれません。
時田太一郎「武四郎が見た江戸時代の道南⑧北斗・武四郎地名考~「上磯」の謎~」『みなみ風』北海道新聞2019年7月26日
とあり、武四郎は上磯郡の海岸線の範囲を東矢不来境川から知内村海岸福島蛇ヶ鼻までとし奏上しており、上磯村地域は武四郎の構想外でありました。時田氏は武四郎が考えた境界である矢不来から西側の段丘崖と磯の連なる海岸を 「平磯」と表現し、これが 後の「上(の)磯」の着想となったと推測してます。あくまで風景を投影しているということで、大枠の考え方はアイヌ地名の命名法と同じであり、その中で2字にするため、「上」と付けたと考えてます。武四郎は海岸段丘から上磯の着想を得たのでしょうか?
『蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付』 の検証
武四郎は『蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付』の中で郡名について、その郡の範囲についても事細かに提案しております。また、郡名が夷語(アイヌ語)である場合、その由来を書き記しています。夷語の由来が書かれていないのは、
石狩州上川郡、天塩州中川郡・上川郡、十勝州下川郡・河東郡・河西郡、久摺州(釧路国)川上郡、膽振州(胆振国)千歳郡、 根室国花咲郡であります。
石狩国上川郡では説明で、惣名を当時上川と言ったことが由来であると書かれています。天塩中川郡には説明はなく、上川郡では石狩にも同じ郡名を奏上しているけど本州にも同じ郡名は多くあるので当然でしょうと説明しています。十勝下川郡も説明なく、河東郡と河西郡についてはトカチ川の東西村々を二郡に割ったと説明されます。釧路川上郡はクスリ(釧路)川上なる故と説明してます。千歳郡はシコツと言ったのを千歳に改号したとあり、花咲郡は和語で鼻岬の意味であると説明されます。
全く由来の説明が無いのは、天塩国中川郡と十勝国下川郡だけになります。しかし、中川郡については上川郡とのからみで、天塩川の中流を指し示す和語であるのは十分に理解できますし、十勝国下川郡はトカチ川下流域を含む地域であったからでしょう。(文脈から河南郡の方がしっくりきますがね。何故かいまは中川郡と名称変更されていあります・・・中流域含みますし。やっぱりしっくり来なかった?) つまり、和語で由来が分かりづらそうなものについては、敢えて説明をしていますし、川関連の郡名しかありませんが、前後の郡名から文脈でわかる和語については説明をしていないようです。
武四郎が考えた渡島国7郡の郡名と命名由来
それでは渡島国7郡はどうだったのか?
津軽郡、檜山郡、爾志郡にはなぜその名を付けたかの説明がなされています。
津軽郡、檜山郡、爾志郡の3郡は、なぜこの郡名を奏上するのか、仔細説明がなされています。いずれの記述も、「なぜその名称を付けるのか」という説明であり、奏上を受け取る側が、その名称を受け入れるのにちょっと違和感があるから説明がなされていると考えられます。
檜山郡の項では、
(前略)此處ハ上の国哉又ハ江差郡に致度けれ共、江差ハ則、江差斗の名にして有。往古此辺惣而檜山にして檜山弾正と申候者領し、江差湊運上の取方も檜材の運上ヨリ起り、(中略)往古檜山の有し辺へ此郡名を存じ置度存候事。
松浦武四郎「蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付」(山田秀三監修、佐々木利和編『アイヌ語地名資料集成』草風館、1988年)112-113頁
要約すると、(この地域の主要な)上の国や江差郡と名付けたいが、江差は江差ばかりの名である。(その逆も然りで、上の国郡って付けたら、片方の江差が不満に思っちゃいますよね。)古に檜山弾正という者領したり、江差湊の運上も檜材から起こったので、昔檜山があった辺りにこの郡名を付けたいということです。
津軽郡ではどうか、
(前略)此處松前郡哉又福山郡とすへけれ共、福山の名何時頃より起りしかしらす。松前ハ夷言マトヲマイの訛りにして、本名譯スル時ハ妻在の義ナリ。今世間松前ハ城下になり通用と成しに、十余里の郡名にセバ又煩しけれど、此名は昔より津軽地之渡海之地にしも有之。古典ニモ其文字出たれハ、今郡名となし残し置度ぞ覚ゆ。(後略)
松浦武四郎「蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付」(山田秀三監修、佐々木利和編『アイヌ語地名資料集成』草風館、1988年)112頁
津軽郡は松前や福山郡と付ければいいのですが、津軽という名は昔より津軽地の渡海の地でもあり、続日本紀に記された「渡島津軽津司」まで例としてあげ、津軽郡という名称を残したいとして推挙しています。今の私たちからすればここに津軽郡って付けるの?って感覚ですが、武四郎は古い由来を重んじたようです。
爾志郡はどうでしょうか、
乙部ヨリ(中略)熊石是ヲ西在八ヶ村ト申候。是ヲ乙部郡、また熊石郡と致し度候へ共、乙部、熊石其村に限り候事は西郡に致し置候方ニ存候。
松浦武四郎「蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付」(山田秀三監修、佐々木利和編『アイヌ語地名資料集成』草風館、1988年)113頁
意訳すると、乙部や熊石郡としたいが、やっぱりそれでは其の村だけの名前なので西郡にしたいと言っています。西郡の根拠として西在八ヶ村と呼ばれていたことを上げています。松前城下を境に西側を「西在」や「上在」と呼び、東側を「東在」とか「下在」と呼んでいました。西在から西郡となり二字にするため爾志郡としたのでしょう。
この3郡に至ってはその時代使われた有名な地名ではなく、古いあるいは特殊な和語を推挙したので個々に説明が必要になったのです。また、郡名を付けるエリアの中で、Aという小地名を郡名にすると、Aという地名のみであるとして、その地域で広域利用されていない地名は避けていたようです。
さて、亀田郡、茅部郡、上磯郡、福島郡には境界を指し示すだけで、その由来については全く説明がありません。今まで見てきたように、夷語である場合は武四郎は必ずその意味を説明していました。この4郡については全く説明がありません。つまり、この4郡についても既述の渡島3郡同様、武四郎は和語として捉えていたと考えられます。その上で、特殊な説明もいらないと判断しているのだと思います。当然和語であり地名として今まさに存在しているので、奏上先に説明しなくてもわかるよね?的なニュアンスで書かれていると思われるのです。今、我々も企画書を作り提案するとき、当たり前の共通認識はいちいち上司に説明しませんよね。
亀田郡、茅部郡、福島郡はもともと地名があり、郡という大地名に取り上げられます。つまり道南を訪れた人なら誰でもわかる地名を郡名にしているのです。その中で、上磯郡だけはどこから命名されたのか・・・忽然と姿を現しました。
由来も説明されず、突然地元に存在しない地名が道南の郡名として現れました。これこそ「上磯」の地名由来の謎であるのです。しかし、今まで見てきたように文脈から説明がいらない地名であることは明らかなのです。ゆえに、これだけ仔細を検討する武四郎であるから、上磯という新しい造語したとしたら、なんの説明もないのはあり得ないのです。
ここまで前置きしておいて、上磯の地名由来はなんなのか。その謎に一つの仮説を提供してみたいと思います。上磯の地名由来の謎③へ