上原熊次郎の『蝦夷地名考幷里程記』には、
夷語、ツ゚ゥトボキなり。ツ゚ゥとは出崎なる山の事。トはのと云う助語なり。ボキとは蔭と申事。此所崎の陰なるゆへ地名になすといふ。(後略)
上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」(山田秀三監修、佐々木利和編『アイヌ語地名資料集成』草風館、1988年)44頁
とあり、出崎の陰という解釈されています。
『永田地名解』ではト゚ーポケと書いて岬陰と訳し下記のように書いています。
又岬下トモ「ト゚」ハ「エト゚」ト同ジ鼻即チ岬ノ義「エト゚」ヲ「ト゚」ト云フハ原岸及十勝「アイヌ」モ云フ辞ナリ今椵法華村ト云フ日蓮宗ノ僧侶始テ此處ニ来航シ法華宗ヲ開キシ處ト云フハ最モ愚ナル附會説ナリ
永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館、1984年)178-179頁
ざっくり意訳しますと、
また、岬下ともいう。「ト゚」は「エト゚」と同じ鼻即ち岬の意味で、「エト゚」を「ト゚」と言うは原岸および十勝アイヌも言う言葉である。今、椴法華村という、日蓮宗の僧侶初めて此のところに来航して法華宗を開いたところというのは最も愚かなこじつけである。
という感じでしょうか。岬の陰という解釈は上原熊次郎とほぼ同じです。
もう一つ、法華という語感から日蓮宗が初めて来航して寺院でも開いたということでしょうか。その日蓮宗(法華宗)と結びつける説はこじつけだと主張しています。同じ日蓮宗説でもまた違ったものがあり、ここは『角川日本地名大辞典』は松浦武四郎の「初航蝦夷日誌」を引用する形で紹介してますが、
別に日持上人由来説もある。松浦武四郎の「初航蝦夷日誌」には「土人の話しニ峠法華は近来の字二而唐法華と書よし。其ゆへは日持上人此処より入唐し玉ひしと。其故ニ此処二古跡有と云り。又ホッケと云魚は此村より取れ初而他国に無魚也。日持上人の加持を得て此地二而此魚ども成仏セしと云伝ふ」
竹内理三編『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』(角川書店、1987年)967頁
日持(にちじ)は鎌倉時代の日蓮宗の僧侶で、彼は東北から青森、函館、松前などの道南を経て、樺太に渡ります。その後海外布教に旅立ち満州に渡ったとも言われていますが良くわかっていません。 唐法華という漢字から入唐した場所ということで、こじつけのスケールが一歩飛躍した感じがします。(笑) 魚のホッケにも触れられていますね。
壮大なロマンのある説ではありますが、やはりアイヌ語由来が通説になっています。
山田秀三氏の『北海道の地名』から、
(前略)永田地名解は「トゥー・ポケ。岬陰」と記しているが、正確に書けばトゥー・ポッ・ケ「tu-pok-ke 山の走り根の・下の・処」であったろう。
山田秀三『北海道の地名』(北海道新聞社、1984年)427頁
tu-pok-ke → tupoke でtuは峰とか岬の意味で江差町津花(tu-pana)でも取り上げました。pokは下という意味の名詞。keは名詞について所という意味を表す語です。ト゚(ト゚ー)・ポㇰ・ケ →ト゚ポㇰケ みたいな感じでしょうか。峰の下の所という意味合いになるのでしょう。
山田氏が山の走り根と訳されているのは、tuの語を意識しているのでしょう。
椴法華市街地を遠くから見渡すと、なだらかな尾根が海に伸びています。津花(tu-pana)で取り上げたtuと同じような風景ですので、尾根とか走り根の下の所という意味が良く合いそうです。
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