前回記事をご覧になってない方は下記をどうぞ。
『北海道蝦夷語地名解』を歩く~上磯郡の小旅行も中盤となりました。ゴールの「ハキチャニ」まではまだ遠いですが、よろしければこのままお付き合い下さい。
To pet トー ペッ 沼川
『永田地名解』には、
上方ニ沼アリ故に名ク古地圖ニハ上流にヌマヲ畵ケリ
永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館、1984年) 173頁
当然、to・pet(トー・ペッ)で沼・川です。上原熊次郎は、
夷語トヲウンベツなり。沼の有る川と譯す。トヲは沼の事。ウンとは生するの訓にて有と申事なり。此川の奥に沼有る故に号くといふ。
上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」(山田秀三監修、佐々木利和編『アイヌ語地名資料集成』草風館、1988年)42頁
to-un-pet(トー・ウン・ペッ)で沼・ある・川で少し丁寧に訳されています。 un(そこにある)なので沼・ある・川となります。『永田地名解』は「un」が略された形です。現在、当別には当別川と大当別川が流れています。
大当別川は「だいとうべつかわ」と読み、日本語としては当別川より大きいので「大」の字がついているのかもしれません。 あるいはアイヌ時代にポロ(大きい)の形容詞がついて表現されていたかもしれません。そうであるとすっきりなんですが、伊能図には現在の大当別川の名称として「ヲートヘツ川」と記されています。単純に「大きい」という日本語の意味で「ヲー」と読んでるなら今までの解釈が成り立ちますが、アイヌ語的に「ヲー」を解釈するとオ・ト・ペッとなり「川尻に・沼ある・川」になります。
伊能図の当別村とだけあり、当別川には名称の記載がありませんので、大小比較としての「ヲー」なのかなんとも言えません。 1850年前後に北海道を旅した松浦武四郎の『蝦夷日誌』には大トウベツの項目に、
村を出て少しの砂岬廻りて川有。歩行渡り也。トウは沼の夷語也。又ベツは川にして、此山少し入、小さき沼有。
『蝦夷日誌』
大トウベツの上流に小沼があったと記されてあります。当別村項には沼の記載はありません。
ここまでを整理して考えられることは、
①大当別川は当別川と比べて大きい説、②大小比較とは別に大当別川の川尻または上流に昔沼があったの2説が考えられます。『上原地名考』の執筆は1824年、『永田地名解』はさらに時代が下ります。伊能図の完成は1821年ですので史料としては伊能図の方が古いものになります。永田氏、上原氏の両説とも昔は上流に沼があったと書いていますが、それが当別川なのか大当別川なのか、はっきりとは書かれておらず、どちらの川のなのかは明確でありません。今はその沼を見ることができませんし、その沼が書かれた古地図を確認することはできませんでした。
ゆえに当別川と大当別川のどちらか、あるいは両方に沼があったのかも確認がとれていないのでした。ちなみに、同様の地名で石狩郡当別町の由来もトー・ペッであります。こちらは川沿いに現在も沼が点在していますので、非常にわかりやすい地名です。JR駅名は2つを混同しないように「渡島当別」と「石狩当別」に区別されています。
大当別川を渡って直ぐ右側にトラピスト修道院への道が見えてきます。線路を渡って丘の方角へ車を走らせると一直線に整えられた風景が見えてきます。非常にインスタ映えしますし、駐車場横で売っているソフトクリームを美味しいのでぜひ立ち寄ってみて下さい。
Kama ya pet カマヤ ペッ 扁磐川
カマヤ・ペッを『永田地名解』で見てみると
寛政十一年谷元旦著ス蝦夷紀行ニ釜岩村ニ板流川ト云フアリ水底ニ大石アリ板ノ如シトアル是レナリ「カマ」トハ板ノ如キ平ナル磐石ヲ云フナリ和人ガ釜岩村ト名ケタル釜ノ如キ岩アルニ附シタル名ニシテアイヌ語ノ「カマ」トハ別ナリ
永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館、1984年)173頁
要約してみると、「『蝦夷紀行』には板流川(いたながれかわ)という水底に板のような大石があり、和人が釜岩村となずけたのだが、これは釜の如き岩があって附けた名前でアイヌ語の「カマ」とは別である。」
という感じでしょうか。板のような岩ならアイヌ語の「カマ」でしょうが、釜のような岩となると日本語かもしれません。近くに川を探しますが、あるのは大釜谷川で字名でも大釜谷が存在します。読みは「おおかまや」で一寸考えると当別と同様に釜谷と比較して大きい釜谷か?と思ってしまいますが、 現在の地図で釜谷川を探してみますが存在しません。『北海道駅名の起源』を見てみると、
アイヌ語の「オ・カマヤ・ウン・ペッ」(川口に平たい岩のある川)から出たもので、谷元旦の書いた『蝦夷紀行』に、この地に板流川という川があって、川底に大石があり、それが板のようであったと記している。
日本国有鉄道総局『北海道 駅名の起源』(須田製版、1973年)15頁
o-kama-ya-un-pet オ・カマ・ヤ・ウン・ペッ(川尻に・扁磐・岸・ある・川)という解釈になるでしょうか。 どうやら『永田地名解』で言っているカマヤ・ペッも大釜谷川のようです。川の中を見てみますが、板のような大石も、釜のような岩も存在しません。どうしたものでしょうか。現在釜谷という地名と大釜谷という地名があり、地名の発生源が大釜谷川からなら、釜谷よりも大釜谷という地名が「大釜谷村」として広域地名で残って、駅名なども「大釜谷」で残っていたほうが無難な気がします。
河口から海を見渡すと、この日は潮が満ちていて岩は波の下ですが、干潮になったなら平らな磯が見えてきます。近くではもともとあったこの磐を加工して養殖に使っているようです。この辺り一帯同じような地形が続きますので、この海中の扁磐を「カマ」と言っていたのかもしれません。実際、恵山の方の釜谷は海中の扁磐です。(いずれ「釜谷」については別に記載します。)本来、ここも海中の「カマ」から、この地名は起こったのかもしれません。若干、河口と海中に差はありますが、整合性はとれるような気がします。 また一説には、青森県より吉田金左衛門なる者当地漂流し現在の所に住居するようになり、生国釜谷(八戸付近)の名をとり命名したというそうです。(釜谷小学校開校百周年記念誌より)調べてみましたが、残念ながら、まだ八戸の釜谷を確認できていません。
では、なぜ板流川という話が出てきたのか。それを示唆する記述が少しあります。伊能図ではヲーカマヤ川のすぐ東側に「イタワタリ」という記載があります。また、松浦武四郎の『蝦夷日誌』にも「イタコツタリ」とあり、小川があったそうです。前者は「板渡り」、後者は「板子伝り」(津軽弁で〇〇子と呼ぶことは多くある。例えばりんご→りんごっこ)と解釈でき、板木か板状の何かを橋渡しにしていたと理解できます。その風景から隣の大釜谷川にもそういった伝承が遷ってしまったのではないでしょうか。
Rogunde tomari ログンデ トマリ 辨財船ノ泊處
『永田地名解』は弁財船の泊まる處と訳しています。弁財船は江戸時代に普及した大型木造帆船で北前船などで利用されていた船です。前述の矢不来を通って釜谷から、後述する札苅まで海岸沿いは浅い磯が続き、他に大きい船が停泊する場所がなかったので、この地にこの名前が付いたのかもしれません。rokunte-tomari ロクンテ・トマリ(弁財船・停泊する処)で『永田地名解』には、
六條澗ト云フハ訛リナリ
永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館、1984年)173頁
とあるのでロクンテがロクジョウに訛っていると記されています。その六條澗がどこかですが、『角川日本地名大辞典』には釜谷の項に、
ロクジヨマはもと六条間村で、江戸後期には当村(※釜谷村)のうちに吸収されたと思われる。 ※筆者注
竹内理三編『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』(角川書店、1987年)375頁
江戸時代に村名がなくなっていたら、それはうちの爺様に聞いてもわかりません。(笑)ですが、釜谷の近くであることに間違いなさそうです。伊能図には「カミロクシャー」と「シモロクシャー」の記載があるので、釜谷の近くにその痕跡はないか探してみましたところ・・・ありました!
釜谷港のすぐ西側のミヤノサワ川に架かる橋になんと「上六畳橋」という名前が今も残っていました。となるとロクンテ・トマリは今の釜谷港がもっとも有力な場所になりそうです。
さて、 ロクンテ・トマリを抜けたあと次の目的地の間にあるサラキ岬に立ち寄ってみました。サラキ岬は咸臨丸が座礁した地として有名です。(寄り道のサラキ岬記事をどうぞ)
Pashkuru nupuri パ̪ㇱュクル ヌプリ 鴉山
函館から国道を木古内方面に向かうと「橋呉」という地名に遭遇します。その昔、橋呉の堤防から投げ釣りをしてカレイを釣りましたが、その釣りの「当たり」を待っている間に橋呉川で「ごだっぺ」(ウキゴリの仲間)と呼ばれる淡水ハゼを採った記憶があります。餌を付けなくても針をゆらゆらさせていると引っかかってくるんですよ。(笑)さて、字のように川があり橋があるので日本語なのかなと思っていましたが、これもアイヌ語かもなんて指摘されるとワクワクしちゃいますよね。
現在では橋呉ですが、伊能図ではハシクルと書かれていたりします。由来はアイヌ語のpaskur-nupuri パㇱクㇽ・ヌプリ(鴉・山)で鴉が多くいたことからこの地名が付いたのかもしれません。ただ、アイヌ語の特性として「~rはn~の前に来れば~nになる」という音韻変化があるので正確にはpaskun-nupuri パㇱクン・ヌプリと発音させるはずで、現在残る「はしくれ」という音と少し乖離してしまいます。今は橋呉川として地名が残っていますが、寄り道した木古内町郷土史料館の入り口の壁図にあるように橋呉山とも書かれています。(史料館の職員の方に伺ったら、橋呉山は橋呉川の上流の山にあたるそうです。)釧路市(旧音別町)の馬主来(ぱしくる)も同地名らしく、
古くはパシクロ・ハシクロ・パシュクルともいい、嘴黒とも書いた。釧路地方西部、馬主来川流域。同川河口部に馬主来沼があり、周りは湿地帯となっている。地名はアイヌ語のパシクル(カラスの意)に由来する。この由来に関し、アイヌが漁のため沖合いへ出たところ、霧が深くなって方角が分からなくなり、カラスの鳴き声をたよりに進むと馬主来沼の沼尻に着いたという伝承がある(蝦夷地名考幷里程記・東蝦夷日誌)
竹内理三編『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』(角川書店、1987年)1164頁
とあります。カラスによって行き先を指し示められる逸話は神武天皇の八咫烏に通じるものがありますね。
『北海道蝦夷語地名解』を歩く~上磯郡③へ続く