小谷石は知内町内にある字名になります。『角川日本地名大辞典』によると、
小田西・小タニ・コタニシ・コタニチなどとも書いた。渡島地方南部、東は津軽海峡に面する。地名はアイヌ語のコタヌシ(村里の意)が転訛したという説(北海道蝦夷語地名解)、アイヌ語のコタヌウシ(村を成すの意)によるという説がある(蝦夷地名考幷里程記)。
竹内理三編『角川日本地名大辞典 1 北海道 上巻』(角川書店、1987年)533頁
小田西・小タニ・コタニシ・コタニチ微妙な語尾の変化が気になります。山田秀三氏の『北海道の地名』を見てみると
知内町南西端の海岸の地名。上原熊次郎地名考は「コタヌウシ」と書いた。kotanu-ush-i(その部落・ある・処)の意か。ここは矢越岬のすぐ手前で、もう行き止まりの処である。人が入って住むようになったころについた名であろうか。
『北海道の地名』
『上原地名考』をそのまま踏襲し、人が住むようになった頃、発生したのではないかと推測しています。kotan(コタン)はアイヌ語で村の意味です。そのkotanについて知里真志保氏は
われわれの考える村と違って家一軒しかなくてもコタンであり、或る時期だけ仮住居するだけの場所でもコタンである。一時的にせよ永住的にせよ家の在る所をkotanと云うのである。mosirと同じく「国土」「世界」といった広い意味に使われることもある。誰かの村という時はkotani(或はkotanu)の形に変化する。
『地名アイヌ語小辞典』
つまりkotan(村)は概念形で第三人称形はkotani(彼の村)またはkotanu(彼の村)であるとしています。 少し整理して、古い呼び方は「小田西・小タニ・コタニシ・コタニチ」または「コタヌウシ」で、現在の呼び方は「小谷石(コタニイシ)」であります。
概念形ならばkotan-us-i コタン・ウㇱ・イ→コタヌシ(村・ある・所)
第三人称形であるならばkotani-us-i コタニ・ウㇱ・イ→コタニウシ あるいはkotanu-us-i→kotanusi コタヌ・ウㇱ・イ→コタヌシ(彼の村・ある・所)
となり、コタニという呼び方を考えれば、第三人称形のコタニウシという呼び方がはまりそうな気がします。
小谷石は現在でこそ、涌元からトンネルが通って車でたどり着くのも容易ですが、少しの前の時代はおそらく船あるいは天気が良く波の無いとき岩場の海岸を通ったことでしょう。あるいは山の上を歩いたかも知れません。松浦武四郎の『蝦夷日誌』には小谷石を出たあと涌元まで 「クロワシリ」「アカワシリ」という地名があったと伝えています。その「ワシリ」という難所地名があるほど海岸沿いは通行が大変だったことが容易に想像できます。山海が狭まって移動が大変なうえに、最後は土地の行き止まりであります。当時の人はこんなふうに思ったはずです。「お前ここに住んでるんかい!」と・・・(笑)。人間関係が嫌になった世捨て人や、田舎暮らし好きがたまたま住んでいるのではありません。アイヌ語の「us」に込められた「いつもそこにある」という意味がしめすように、「いつもそこに(たとえ一軒家でも)村がある」のです。普通に村があるならkotanでいいのですし、普通のkotanなら地名にならんのです(と思います)。
「おいおい、あの行き止まりなんて普通は住まないだろ?交通の便も悪いしよぉ。でも行くといつも誰か住んでるんだよなぁ!信じられるか?いつもそこにkotanがあるんだよね!」
というアイヌ人たちの声が聞こえるようです。 そこには特別な何か、特別なストーリーがあると思いませんか? 何か特別なことがないと名称が残らないと思いませんか?(笑)なので、小谷石は、本来なら「そこに村は作らんでしょ。」という場所に、絶えず村があるということ自体がニュースになる地名と勝手に解釈しました。