『北海道蝦夷語地名解』(通称『永田地名解』)を歩くの二回目檜山郡ですが、上磯郡に比べて非常に大変でした。何が大変かというと始まりは「ピッウシ」いう江差から南に位置する石崎からスタートし、次はいきなり北側の江差、しばらく内陸部が続いたかと思うと、また、海岸沿いに戻り最南部の石崎と江差の中間である洲根子岬に戻るのです。上磯郡に比べて順不同に並んでおり、『永田地名解』に書かれた地名がどこであるのか比定するのは大変でした。その比定した地名も、本当にそこであっているのか正直わかりません。紆余曲折しながら二日間かけて今回も『北海道蝦夷語地名解』を歩きます。北斗市から中山峠を通って地名をめぐっていきましたが、都合上、『永田地名解』に沿って解説していきます。
Pit ushi ピッウシ 石多キ處
『永田地名解』に解説があるので、どの地名を指しているかは容易に比定できました。『永田地名解』を引用すると
石崎(村、川)ト云フ石川ナルヲ以テ名ク松前志等舊記ニ比石トアリ「ピッウシ」ノ訛ナリ然ルニ比石ヲ「コロイシ」ト訓セタルハ誤ナリ
永田方正『初版 北海道蝦夷語地名解 復刻版』(草風館、1984年) 169頁
とあり、『永田地名解』が指し示す「ピッウシ」は「比石」から比石館のある石崎川流域に間違いなさそうです。『蝦夷地名考幷里程記』には、
此地名和語なるべし。此川尻は石の崎なる故、和人の石崎と号したるべし。故事未詳。
上原熊次郎「蝦夷地名考幷里程記」(山田秀三監修 佐々木利和編『アイヌ語地名資料集成』草風館、1988年)89頁
石がある崎なので「石崎」の地名があると書いています。故事未詳としているのは、後述する畠山重政の故事を言っているのかもしれません。もともと石崎川は比石川と呼ばれていたようなので、アイヌ語のpi-us-i(ピ・ウㇱ・イ)でピウシ、あるいはpit-us-i(ピッ・ウㇱ・イ)でピツシやピト゚シだったかもしれません。「石・多い・所」という意味です。その意味から石崎と意訳されたか、あるいは和人が見たそのままの風景を和語で言い表したものかもしれません。
石崎川河口の南に岬があり、館神社が建っています。この岬の上が比石館跡です。この館跡は、嘉吉元年(1441)下北の田名部から渡道した厚谷右近将監重政が築いたものと言われています。 重政は有名な鎌倉幕府の有力御家人畠山重忠の一族であるとのことですが、重忠は謀反の罪で元久2年(1205)に討伐されてしまいます。重忠は奥州合戦の功績で陸奥国の地頭職を賜ったとのことですが、その子孫はその奥州の一所懸命の地に根付いたのでしょうか。それから240年余りすぎ、田名部から北海道に渡った重政が果たして本当に重忠の子孫かは微妙な感じがします。その後、長禄元年(1457)のアイヌの族長コシャマインの戦いでこの館は陥落します。伝説では、敵矢にあたり討死にした重政は、館下に転落して川に身を沈め、大鮫に化身し、川の主になったということです。
Esashi エサシ 昆布
檜山の代表的な町である江差町、その江差の地名由来については、諸説あります。別記事として取り上げさせて頂きましたのでどうぞご覧下さい。江差町には海の駅えさしや日本一小さい道の駅、旧江差駅や郷土資料館もあり寄り道しながらの旅路になります。寄り道先も紹介していきたいと思います。
Mena メナ 支川
位置を楽に比定できるかな~と思っていたメナ地名も、正直甘かったです。このメナ地名は「目名」と漢字表記されていることが多く、檜山郡には目名(メナ)地名がいくつか存在してます。ざっくり探しても3つありました(本当にざっくりです)。北斗市から中山峠を越え、鶉町を通り抜けたところに第一のメナがあります。
現在では、目名橋という地名になっており、道路のしたを小川が流れています。この小川は厚沢部川に流れ込んでいます。支流ですね。
第二のメナは厚沢部川中流域に流れ込んでいる川です。ちょうど、厚沢部の市街地を通り越して江差町へ抜けるまでの左側にあります。川の名の由来に書いているのは文章からして山田秀三氏のようです。これも厚沢部川の支流になります。『角川地名大辞典』によれば、江戸期から昭和35年まで村あるいは大字名で存在したようです。
折角、地名掲示板に地名の意味が書かれているので、『地名アイヌ語小辞典』で見てみると、mena メナ 上流の細い枝川 とあります。もうちょっと説明が欲しい感じです。3つめのメナに話を進めましょう。
最後の上ノ国目名川は天の川の支流になっており、今まで三つのメナ(目名)を見ましたが、いずれも比較的大きい川の支流であることに間違いはありません。上ノ国目名川について山田秀三氏は著書の中で、
天ノ川の川口に近い処に北から入っている支流。上の国目名沢川と呼ぶようになったのは付近に目名が多いからであろう。南の石崎川、北の厚沢部川、突符川にも目名川があるのであった。目名の語義がはっきりしない。永田地名解は処により、枝川、小川、水たまりのように訳がちがっている。知里博士はメㇺ・ナイ(mem-nai 泉池・川)のつまった形ではないかとの考えを持っておられた。私の見た範囲では確かにその姿のものが多かったが、未調査のメナも多いので、まだそうだと断定する処まで行っていない。今後の研究に待ちたい。
山田秀三『北海道の地名』(北海道新聞社 1984年)440頁
ああ、石崎川の支流にメナはあるのですね(苦笑)。そこに行くときはメナ特集でもするときにしましょう。さて、山田氏の指摘に通りなら、メナの原義はどうもはっきりしないようです。永田地名解の枝川という解釈は三本の川にピッタリと当てはまりますが、もっと広い地域で見てみるとどうなってくるのでしょうか。今回『北海道蝦夷語地名解』に記された「メナ」はその前に「エサシ」と次に内陸部の厚沢部の「ポロナイ」が来るので、その中間にある二番目の目名川に比定したいと思います。『北海道蝦夷語地名解』を歩く~檜山郡の地名②へ続く。