国道229号線を江差や厚沢部方面から北上していくと、右手に乙部八幡神社が見えてきます。神社前の道路を真っ直ぐ行くと乙部港が直ぐに近くです。
神社の由来を北海道神社庁のホームページから引用すると、
社伝によると、宇田遠江守師長他3名の従者が戦に敗れ船で乙部に逃れてきた際、飢えと疲労が甚だしかったので人家を探していたところ、夜に輝く光を見て人家と思い近寄ったがそれは月桂樹の老木の木瘤で、この不思議な木に祈願し人家の所在地を占ったところ、西南の方角に人家を発見し飢餓より救われたので、後日その老木の神徳に感謝し木の根元に塚を建て八幡大神を奉斎、この地に定住したという。慶長6年(1601)5月15日、住民が増加してきたので社殿を建立し岡山八幡宮と称した。宝永年間、人口の増加と共に飲料水が不足したため村人らが社頭に集まり祈願すると37日目に本殿の近くから清水が噴き出し、人々は「信心の水」また「八幡様の水」と呼び神の恵みに感謝したという。文久元年(1861)9月の強風の夜に村の一角より出火、本殿を残して総て焼失、貴重な諸記録も失う。明治9年10月16日に郷社に列せられ、同11年に拝殿を再建する。明治43年恵比須神社3社と滝ノ神社、翌44年海童神社を合祀、大正元年12月14日神饌幣帛料供進神社に指定される。昭和21年宗教法人となる。平成9年8月7日豪雨による土砂崩れで本殿が全壊、幣殿に御神璽を仮遷座した。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神
滝ノ神社 瀬織津姫命 文政3年創祀 明治43年12月6日合祀・恵比須神社 言代主命 文禄13年創祀 明治43年12月6日合祀・恵比須神社 言代主命 嘉永6年再建 明治43年12月6日合祀・恵比須神社 言代主命 明和2年創祀 明治43年12月6日合祀・海童神社 豊玉比古命 宇気母智命 慶長16年創祀 明治44年10月5日合祀
北海道神社庁ホームページ
宇田遠江守師長という人が伝承の始まりのようですが、調べてみると奥尻町のあゆみという資料に上杉謙信の家臣であったと書かれています。
川中島の戦いから落ち延びて奥尻島に漂着したのが弘治元(1555)年のことであるらしいです。1555年と言えば第二次川中島の合戦ですので、長野で行われた合戦から海上避難しなければならない理由もわかりませんし、和睦して両軍撤収していますので果たして何故上杉謙信の家臣が遥か遠い蝦夷地まで流れて来たのか少し眉唾感が否めません。
他に資料も当たってみましたが、今のところそれ以上の情報をつかめておりません。
この現在ではこの八幡神社の神職は別の氏ですが、わかるところによると幕末から明治にかけては工藤氏という氏族が神職を務めていたようです。
神社の裏手に現在宮の森公園がありますが、そこに箱館戦争に功績のあった工藤一族の墓があります。もっとも大きい墓は工藤采女という方のものでありますが、この辺はまた時間のあるときに記事にしたいと思います。
境内には立派な狛犬もあり、台座に氏子中の字が見えますので、氏子の方から寄進されたものでしょう。
狛犬と木鼻の阿吽の位置が逆になっているのが気になる所です。
社殿左脇には件の八幡さんの水があります。すぐ裏手には宮の森公園があります。
コメント