上磯(かみいそ)地名由来の謎

北斗市役所 地名
旧上磯町役場でもある北斗市役所
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道南の北斗市上磯町大野町が合併し、2006年2月1日に誕生しました。新しい市の市名を名付けるために、上磯の一字と大野の一字を付けて「磯野」だ!いやいや「大磯」だなど紆余曲折あったようですが、最終的に北斗市になったようです。その北斗というの名前の賛否はさておき、北斗繋がりで『北斗の拳』のケンシロウの像が新函館北斗駅に寄贈され一般公開されています。

そもそも、その上磯町は戸切地村(へきりちむら)と有川村(ありかわむら)が合併して出来た上磯村が前身でした。戸切地村は戸切地川より西側、有川村は今の大野川と戸切地川に挟まれた区画を村域としたようです。

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上磯はアイヌ語か?

上磯は昔は村名、町名でありましたが、今でも郡名や学校名としてその名前が残っています。 『北海道蝦夷語地名解』には上磯郡の項として「古へ此名ナシ何ニ由リシカ知リ難シ」とあり、その由来に関しては明示されていません。ゆえにその語源をアイヌ語に求めようと、研究者たちは色々な説を唱えました。山田秀三氏の著書から引用すると、

カムイ・ソ(神・滝)説、カマ・シ(波かぶり岩)説も書かれていきたが、たぶん和名であろう。箱館、亀田辺の人が、上の方(この辺では西の方、あるいは松前の方)の磯という意味で呼んでいた名だったのではなかろうか。

『北海道の地名』

と結んでいます。確かに松前に近い方を上〇〇、遠い方を下〇〇(〇〇は地名)と言う地名は存在します。しかし、上磯があるなら、下磯があるはずですし、その場合、ただの「磯」という地名になってしまいます。道南の人間は下海岸(しもかいがん)とは言いますが、下磯とは言いませんし、そもそも、西の方を言う言葉として「上磯」と用いるのは聞いたことがなく、疑問が残るところです。

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戸切地村と有川村

上磯八幡宮の手水鉢
上磯八幡宮の手水鉢には戸切地村若者中との刻印

そもそも戸切地村と有川村は明治12年4月合併し上磯村になりました。しかし、史料に残るところでは当初、合併に好意的では無かったようです。特に、戸切地村の方は戸切地川の西側を村域としていたことから入会林を多く所有しており、財政的に恵まれていました。合併により有川村の住民にもそれを使わせなければいけないことを不満としていたようです。どこかで聞いた話ですが、函館市と上磯町も、上磯町がセメント工場があり税収豊かなため合併を嫌がっていましたね。いやはや、平成の市町村合併での利害を模索する動きと同じものが100年以上も前に起きていたとは・・・。しかし、その入会林も官有地に編入されることになり、戸切地村村民も入会利用から排除されることから、その優位性が消滅することとなり、両村は合併し「上磯村」の誕生を見ることとなるのです。

有川大神宮の鳥居
有川大神宮の鳥居前
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新しい村名

これはまた別の機会にも述べますが、合併して新しい名前を付ける際に、それぞれの名前を分割して両者の一字ないし、全部をくっつけるという手法が良くとられました。冒頭に戻りますが、「大磯」だの「磯野」だのがそうです。新しい新幹線の駅名も新「函館」「北斗」駅でした。この二つをくっつける手法もどっちが上にするんだ!で結構もめたりするのであります。新幹線駅名も実際もめていましたね。

では、戸切地村と有川村の合併の際、新しい村名はどうきめられたのか?

簡略すると、「お互い仲良くやっていくから名前も決めてください」と開拓大書記官だった時任為基に願書が提出され、認可されたのであります。おそらく名前を決めたのは時任為基であった可能性が高いのでしょうが、何をもとに付けられたのか・・・。おそらく上磯郡という地域名を拝借し、合併した名称を「上磯村」としたと推測されます。もともとあった地域名を付けられるのですから、村民たちの中に違和感も無く受け入れられたことでしょう。しかし、その「上磯」という名称が「古へ此名ナシ何ニ由リシカ知リ難シ」と記したように、どこからきたかの由来は謎のままであるのです・・・。上磯地名由来の謎②へ

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