上磯(かみいそ)地名由来の謎③~青森県上磯と上磯地名由来の正体

津軽海峡からみた青森 地名
津軽海峡からみた青森
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前回、松浦武四郎の『蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付』から武四郎が名付けた「上磯」という地名は和語の可能性が高いこと、しかも奏上する側、される側にとって一般的な名称であった可能性を指摘しました。では、「上磯」という地名を武四郎は一体どこから拾ってきたのでしょうか。

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青森県の上磯・合浦・下磯

青森県に上磯と呼ばれる地域があることはご存じでしょうか。実際はどの辺を指し示すか。『角川地名大辞典』上磯の項には、

「かみそ」ともいう。また、北浜とも見える(津軽郡中名字)。青森市油川から東津軽郡三厩村に至る陸奥湾・津軽海峡地域の汎称。当地に対し、野内以東を下磯、青森平野の中央部を深沢と称し、総称して外ヶ浜という(国誌) (後略)

竹内理三編『角川地名大辞典 2 青森県』(角川書店、1985年)274頁

さらに同辞典の合浦(がっぽ)の項には、

(前略)北浜にあたる地域が上磯、東卒都浜にあたる地域が下磯とも称され、その接合点が合浦と呼ばれた。合浦は、狭義には接合点、現在の青森市合浦付近を指すが、広義には外浜・北浜一帯を指す。なお、合浦の地名は各地に見られ、本県でも津軽西海岸地方を指す西浜に上磯・下磯があり、その接合点にあたる鯵ヶ沢は西浜合浦であった。

竹内理三編『角川地名大辞典 2 青森県』(角川書店、1985年)260頁

つまり、陸奥湾に開かれた三厩から油川辺りまでを上磯(あるいは北浜)、中心部の接合点を合浦(あるいは深沢)、野内以東を下磯(あるいは東外浜)と称していたようです。青森市内中心部には現在でも合浦公園があります。

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上磯・下磯の命名由来

では、青森の上磯・下磯はどのような形で命名されていたのか?そのヒントは、もう一つの西浜にある上磯・下磯にありそうです。日本海に面したところで鯵ヶ沢を中心に、南側を上磯、北側を下磯と称して、鯵ヶ沢は西浜合浦でした。外ヶ浜の地域では西側を、日本海鯵ヶ沢方面では南側を「上磯」と呼んでおり、「上(かみ)」すなはち、京都に近い方を指し示していています。これは、北前船が敦賀から出航して日本海を通る西回り航路があるので、その道順通りに都に近い方を「上(かみ)」遠い方を「下(しも)」と称したのでしょう。

これで、青森にある上磯・下磯の由来は解決しました。また、この時点で青森の「上磯」はアイヌ語ではなく和語であるということは明確でしょう。

さて、北海道渡島国上磯郡の名称ですが、それは津軽郡の上磯地方の名称から持ってきた・・・ではいささか弱い感じがします。それを解明するヒントは松前街道です。

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松前街道と上磯街道

松前街道と聞くと、北海道松前近くの道かしら?と考えてしまうかもしれませんが、実際は違います。これも『角川地名大辞典』から引用すると、

油川(青森市)と三厩を結ぶ街道。千住(東京都)から三厩に至る奥州街道の一部をなし、松前(北海道)への経路に当たることから松前街道・松前道と称され、上磯街道とも呼ばれた。

竹内理三編『角川地名大辞典 2 青森県』(角川書店、1985年)882頁

その昔、参勤交代で松前藩の大名が松前から三厩に渡り街道を通って江戸を目指したことによります。別名、上磯街道です。では、松前街道は青森の油川から三厩で終わりかというとそうではありません。海を渡り、松前城下まで行きます。そして松前~函館への道も松前街道(福山街道)と呼んでいます。

さて、同じ松前街道なら別名の上磯街道という名称を使わない人がいるでしょうか。実際、私は国道228号線を上磯街道と呼んでいました。上磯を通る道だから当たり前に思ってましたが、本来は松前街道の別称として使われていたのかもしれません。それよりも、青森県を北上してきた武四郎ら内地人にとっては松前街道は上磯街道と認識していてもおかしくありません。

余談ですが、20年位前はタクシーの運転手に「上磯街道真っ直ぐ行って」で通じましたが、今は「はっ?」って顔をされてほとんど通じません。(笑) 現在でも、この道筋は国道280号線として、青森~三厩~福島~函館を結んでいます。

もう一つは、津軽海峡を挟んだ青森と道南の土地でアイヌ語由来地名の対称性が金田一博士や山田秀三氏によって指摘されています。遠い昔の旅人であった菅江真澄や松浦武四郎も津軽海峡を挟んで同地名が存在することを当たり前に思っていました。そういったことを考えれば、アイヌ語ではありませんが、津軽に松前街道があり上磯街道と呼ばれているなら、道南の松前街道も上磯街道と思っていても不思議ではありません。

松前街道がすぐ脇を通る道南の砂浜
松前街道の近く道南の砂浜

上磯地名由来の正体

青森県に西回り航路の順路によって上磯・下磯という地名がありましたが、その外ヶ浜の上磯は松前藩が参勤交代で江戸にのぼる松前街道が通っていて、松前街道は別名として上磯街道と呼ばれまていました。松前街道は道南にも続き函館方面へ至りますが、武四郎は郡名を定める際、松前(上磯)街道が郡域の大部分(知内から矢不来まで)の地域を通っているので、上磯郡と命名したのではないでしょうか。

それが誰も馴染みのない新しい造語であれば、武四郎はその説明をしたはずです。それが成されないのは武四郎にとって、あるいは郡名の提案を受ける側にとって「上磯」という名詞は共通認識であったからでしょう。松前街道の別名として上磯街道は周知されているところですので、当然街道を通って赴任した奏上先の開拓使は「上磯」という名称を知っていることでしょう。そうであるからこそ、「上磯」は上磯街道という固有名詞の和語であるので、奏上するにあたりことさら説明もいらず、受け取る側もすんなりと解釈できる言葉であったと思われます。

単純に松前や上方に近い磯の「上磯」なら武四郎はそれを説明したでしょう。しかし、固有名詞として開拓使内で共通認識があるゆえに、『蝦夷地道名國名郡名之儀申上候書付』では上磯郡の項で全く説明が成されなかったと考えられるのです。

武四郎は「上磯郡」の由来について一切説明せず、永田方正氏は『北海道蝦夷語地名解』上磯郡の項として「古へ此名ナシ何ニ由リシカ知リ難シ」と記載しました。これにより、アイヌ語地名研究者は、「上磯」に蝦夷語の地名解を探し当てようとして諸説打ち立てました。結果的に西の方や松前に近い「上の」磯だからと推測した先学たちもおりました。しかし、これまで説明してきたように、同じ「上磯」でも、北海道の中で「上」とか「下」とかでなく、筆者は単純に上磯街道から名称を拝借して「上磯」としたと考えています。

[追記]2020/8/1

北斗市郷土資料館の時田氏より非常に示唆にとむ意見を頂きました。この場を借りてお礼申し上げます。

※1、他の読者から指摘された『福山旧事記』(天保14年写本)享禄2年に蝦夷の首長タナケシが瀬棚で工藤九郎左衛門尉祐兼を討ち取った箇所があり、そこには瀬棚を「上磯セタナイ」と記述があるとするが、原著に近い天保7年本等には「上磯」の記述は見られないとのことであった。

※2、津軽海峡を東から西へ(福山側へ)向かう潮のことを「カミソ」「カミシオ」と呼ぶ例があり、松前白神地方で収集された方言の例では、福山側(北西)に向かう潮を「カミシオ」、吉岡側(南東)に向かう潮を「シモシオ」と呼ぶ例があるとのこと。このほか奥尻で北西(福山向き)の風を「カミカゼ」北東の風を「シモカゼ」という例もあるというご指摘を頂いた。

※3、地域の古老で「上磯街道」という名称でかの道を呼ぶ人は聞いたことが無いとのこと。(ごくわずか、現在の海岸道路を指して「上磯街道」と呼ぶ方はいることはいたが上磯国道開通後に「上磯国道」と「福山街道」を混同して呼んだのではないかとのこと)

道南での同時代史料からの上磯の記述、あるいは武四郎や戊辰戦争、幕閣、明治時代の道南関係者が道南の地域を「上磯」と考えた史料があると筆者の仮説にある程度の信憑性が出てくるのもご指摘の通りです。

上磯地名由来の謎に対する一つの仮説を提供しましたが、謎の解明には至っておりません。武四郎は一体どこから「上磯」の名称を持って来たのか?あるいは全く別の由来があるのか?このブログ読者の中で新たな知見をご提供して頂ける方は、是非お問い合わせから情報をお願いします。m(__)m

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