前2回に渡ってペリーが捕らえたイトウがどこにいたのかを考えてきました。
読者の方からの情報もあり、現在も久根別川にイトウがいる可能性があることも前回指摘した通りです。
では、最期のミッション、冒頭のアイキャッチ画像にあるハイネの絵図に書かれた黒い棒状の物体の謎にせまっていきたいと思います。
ハイネの地引網図
では、今一度ハイネの描いた地引網図を見てみましょう。
左下に三本の黒い物体が描かれています。その他のペリー艦隊の船員たちは各々地引網をしたり、釣りをしたり、薪を割ったり、調理をしたりしています。
筆者も絵を描くので、遠景の函館山との対比に近景に黒い物体を描いたと思いました。しかし、一般的な観賞用絵画ではないもので、遠近のバランスだけの理由で意味のないものを描くのか甚だ疑問に思うところです。
おそらく、ハイネにとって描いておきたい何か意味のあるものではなかったでしょうか。
見た目から想像できるもの
黒い物体の周辺も黒くなっているので、単純に黒い物体がそこに刺さっているというよりは、何らかの一帯を黒くするものが広がっているような気がします。
見た感じは流木が黒くなったような感じがしますので、ペリー艦隊の船員がバーベキューを行ったあとで炭化した跡かとも思いました。
しかし、前述したようにあまり意味のないものをハイネは描かないのではないでしょうか。
となると、地元の人が何かしらの理由で作っている人工物ということが考えられます。
ハイネ旅行記にある記述
何かしら参考になるものはないかと『函館市史』や『蝦夷日誌』などの記述を見てみましたが、何ら手掛かりになるようなものはありませんでした。
こうなると描いた本人、ハイネの回顧録を見てみようと思い下の本を手に取りました。
何か謎に迫る記述がなかろうかと探してみましたが・・・ありました!
回顧録の中になんとなく気になる記述があります。
(前略)河口の周辺は、漁師たちが集まる漁港である。春になると、鮭の群れが産卵のために川を遡上する。各漁村やその近くには必ず平らな砂浜があり、漁師たちはその上で網を干したり、長い木の台を置いて、鮭を干したりしていた。私は、その砂浜で炉の上に置かれた大きな桶を見た。日本の漁師たちは、熱湯の中に酸味のある植物を入れて黒い染料を作り、網をそれにつけて腐食を防いでいる。間もなく漁の季節を迎えるため、漁師たちは、この仕事で忙しそうであった。(後略)
上記引用にある春に鮭の群れが産卵で遡上するというのは、前々回に記述した通り、サクラマスでありいわゆる一般的な鮭ではありません。
さて、謎の黒い物体・・・
「熱湯の中に酸味のある植物を入れて黒い染料を作り、網をそれにつけて腐食を防いでいる」この記述は函館の漁師に関するものであります。
もしかしたら、網を加工するために使った台になる木であったりするのではないしょうか。
いや、もしかしたら、木そのものも地引網の網を繋ぎとめるため、あるいは船を係留する杭として利用するため、腐食しないように黒い染料が塗られたものではないでしょうか。
現在の有川河口
さて、晴れた干潮の日に再び有川河口に行ってみました。
河口右岸ではありませんが、河口左側水中になりやら黒い木が並んでありました。
一定の間隔で並んでいますので流木ではなく、あきらかに人工物です。
これは昔の桟橋や船を係留する場所でしょうか・・・。
風化で黒くなってしまったというよりは黒い染料で塗られている節があります。一体全体これはどんな加工物で、どんな用途で用いられたものなのでしょうか。
知人の漁師に聞いてみましたが、明確な回答を得られませんでした。
さて、謎の黒い物体に関しては推測混じりの曖昧な結論となってしまいました。
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