さて、前回記事でK研究所のF様からイトウがいたと思われる地引網図がどこの河川かを探して欲しいという依頼を受けました。↓下記が前回記事になります。
図を見た瞬間、なんとなくこの辺かな~という想像が思い浮かぶのですが、それでは曖昧な結果になってしまうかもしれませんので、折角依頼を受けたので間違いないよう道南の河川を出来るだけ一つずつ潰していこうと思います。
まずは一番詳しそうな『函館市史』の記述を見てみます。
(前略)そのほか、十八日には異人十五、六人がボートに乗組んで、亀田浜に上陸して引網漁をしたり、十九日には、亀田浜、七重浜、有川辺へ上陸、制止も聞かず引網したり小銃で野鳥をとったりしているばかりか、高橋七郎左衛門の報告によると、同日午後二時ころ、五、六人の者が七重浜に上陸し、持参した徳利を出して談笑して飲み合っていた。(後略)
『函館市史 通説編 第一巻』 560~561頁
亀田浜から有川辺までで引網漁していた記述がありますので、まずは亀田浜、すなわち亀田川あたりから探っていきます。
亀田川から見た函館山
函館の方ならご存知と思いますが、現在の亀田川は函館湾ではなく大森浜に注いでおります。
かつては函館湾にそそいでいましたが、流入する土砂が港湾としての機能を著しく損なうことから、河川切り替えをして現在に至っています。ペリー艦隊が来航した時の亀田川は、まだ函館湾にそそいでおりました。
ペリーが米国議会に提出した地図「THE HARBOR of HAKODADI」を見ると亀田川は「Kamida Creek」と記されて函館湾に注いでいます。
じゃ、実際には函館湾のどの辺に注いでいたのでしょうか。
冒頭のアイキャッチ画像の「万代町の歴史」は万代町のともえ大橋付近に設置されており、それにはペリー艦隊のことが詳しく書かれています。その掲示板の一部分をピックアップした画像を引用しましょう。
旧亀田川は北海道教育大学函館分校(旧函館師範学校)の横を通り、亀田八幡宮を経由し蛇行しながらガス会社横通り大きく曲がり函館湾へ注いでいます。ペリー時代と若干違いがあるかもしれませんが、おおよそどの辺に注いだか検討は付きます。
さて、下の画像がおそらく旧亀田川が注いでいたあたりと思われます。
おそらく暗渠になっているのでしょうが、正確に比定はできませんでした。
建物があってちょっと見にくいですが、この旧亀田川近辺からみた函館山は、やはりウィリアム・ハイネの描いたスケッチとは似ていないですね。
次の候補地である常盤川(ナナイ川)へ行ってみましょう。
常盤川(ナナイ川)から見た函館山
亀田浜から七重浜と『函館市史』には記述がありましたので、次は常盤川へと向かってみます。
以前、ブログでもお伝えしましたが、現在の常盤川はアイヌ語のヌアンナイ→ナナイと呼ばれていた可能性を指摘させて頂きました。
↓過去記事
ヌアンナイ、すなわちナナイはアイヌ語で豊漁の沢ではないかという考えでしたが、現在の函館水産高校の裏手あたりを蛇行していたようです。
「THE HARBOR of HAKODADI 1954」を見てみると「Nuai Kawa」ヌアイ川と記されており、永田地名解にあったヌアンナイを思い出させる記述です。実際河口付近を蛇行しているので、おそらく一帯は祖父が言っていたように湿地帯だったのかもしれません。
「豊漁の沢」と訳されるとサケ類やイトウがいそうなイメージを受けますので、この辺が地引網図のあたりかとワクワクしてしまいます。
現在の常盤川は途中で石川と合流しますが、河川切り替えや分流がすすみ河口付近ではそれなりの水量になるものの、上流の水量はそれほど多くはありません。
現在の河口付近で函館山を見ようと思いましたが、津軽海峡フェリー乗り場で見る事が出来ません。
もう少し西に行った七重浜海水浴場あたりで函館山を望んでみます。
ちょうどこの辺りは函館水産高校より海岸線へ直線的に南に来たあたりですので、過去に蛇行した河口付近になるやもしれません。
一番左側にこぶのような尾根が確認できますので、残念ながらハイネの絵図とはちょっと違います。そうなってくると、あと可能性があるのは久根別川、大野川、戸切地川、流渓川くらいになってしまいますね。次は現久根別川を見てみましょう。
現久根別川から見た函館山
さて、現在の久根別川から函館山を望んでみます。
大分ハイネの描いた絵図の函館山と似てきた感じがします。残念ながら、ペリー艦隊が来たころは河川切り替えがまだ行われておらず、この久根別川はありません。
となると、いよいよ大野川か戸切地川がそれである可能性が高いと思われます。
大野川右岸からの函館山
さて現在の大野川右岸から函館山を望んでみましょう。
見た感じはハイネの描いた絵図の特徴があります。ここがそれっぽいですが、念のため他の河川からの写真も確認します。
戸切地川右岸の風景
戸切地川右岸から見た函館山です。
ほとんど見た感じは大野川右岸からの風景と変わりはありません。
これより東側の河川はどうでしょうか。
流渓川と茂辺地川から見た函館山
さすがに流溪川や茂辺地川まで行ってしまうと、ハイネの描いた絵図とは函館山の形が違ってしまいます。形から見るハイネの描いた絵図は大野川か戸切地川に比定されそうです。
大野川と戸切地川
ペリー提督がアメリカ議会に提出した「THE HARBOR of HAKODADI 1954」の有川付近拡大図を見てみましょう。右端の方に「Arekana」との記載ですが、有川のことでしょう。
一番右の川は左に蛇行していますが、大野川であると思われます。久根別川が合流しているはずですが、記載はされていません。
その横の川は戸切地川、そして宗山川、流溪川であると思われます。
同じ下図の「THE HARBOR of HAKODADI 1954」亀田川河口域では河口の左側にペリー艦隊が駐留している地域も記されています。その下の図、ハイネの描いた地引網風景の遠くには黒船と思われる艦隊が遠景中央に見えますので、位置的にも有川付近から見た図面になると思って間違いないでしょう。
以前、大野川や戸切地川に関する記事を書かせて頂きました。
過去の地図を見ると河口で大野川と戸切地川が合流して有川という地名になっているというのは以前お話ししたところです。
上述した通り、ペリー艦隊が来た時はその図面からも戸切地川と大野川は合流していないと思われます。じゃあ、今回のハイネの絵図はどこの河川だったのかと言われると、限りなく現在の大野川であると思われます。ただ私的に言わせてもらうと、厳密には旧久根別川が合流した河口域の「有川」であると思います。
有川には橋長57間(約103m)※の大橋が掛かっていました。それくらい道南で最大級の河川でした。
分流前の旧久根別川の水量が合流するのですから、相当な水量となっていたと思われます。当然、その下流域は湿地帯含めて広域な河川になっていたことでしょう。イトウが生息する条件を満たした大河であったと推測されます。
※松浦武四郎『蝦夷日誌』、武四郎は戸切地川を有川の支流と表現していた。もしかしたら、戸切地川と有川はオウコッナイのように河口で合流と分離を繰り返す川だったのかもしれません。
江戸の安政年間に作られた古地図には有川すなわち大野川に注ぐ旧久根別川の下方に沼を描いています。この図の拡大したものには沼尻という地名もありましたので、久根別川の南側は湿地帯であったことが想像できます。
ペリーが捕らえたイトウはどこにいたのか?
さて、河口の風景から現在の大野川か戸切地川河口域ではないかという推測にいたりました。ほぼほぼ大野川ではないかと記述してしまいましたが、二つの河川は過去には合流していたとはいえ、厳密にどっちであったか知りたいところです。
そこでF様に一つ質問を投げかけてみます。
ひとつ質問なのですが、イトウは清流ではないところでも生息できるのでしょうか。あまり急流にはいないという話は聞いたことがあるのですが、その辺をお聞きしたかったです。
その回答がこちらです。
ご質問の件ですが、イトウの生息河川の特徴は大きな川であること、また下流に湿地などが広がり、しばしば海潟湖が川につながっているような環境を持つことです(猿払、ベカンベウシなどがそうですが)。ですので清流や急流河川よりは、泥炭地を流れ、フミン物質で茶色く染まったような流れを下流域にもつ河川が生息河川です。
戸切地川はアイヌ語で白い川と称されるほどの清流です。また、大野川上流は清流で意外に急流河川であるので、強いて言えば旧久根別川と大野川の結節点、いわゆる有川に比定されそうです。生息域としては久根別川からかつての大野川下流、有川が有力であると思われます。推測になりますので、大野川上流や戸切地川流域での生息も完全否定はできません。
三つの川にまたがって生息していたら、それはそれで壮大でさすがイトウといったところです。
有川(旧久根別川)のイトウは絶滅したのか?
定説では道南の河川にはもうイトウはいないことになっております。無論、東北も同様です。
まあ、この辺が調査の限界かと、思いながら行きつけの和食屋さんでこのイトウの話をしました。この店主、サケマス類はもとよりイワナやヤマメもガリガリ釣る強者です。
この話をすると、久根別川でイトウを釣ったよというまさかの回答が!(;・∀・)※
よくよく話を聞くと、久根別川上流の水産試験場があって、そこから流出した魚体だと思われるとのこと。台風による影響でそこで飼育していたイトウが流出したとかしないとか。
猿払とかでもイトウを釣っており、台風の情報を聞いてその流出した直ぐにイトウを釣りたいために釣りに行ったとのことでした。
眉唾とも思いながら過去記事にそのようなことがないかと調べていくとありました。
当時の2010年の函館新聞の記事を引用します。
◎大雨でサクラマスなど800匹死ぬ…北大七飯淡水実験所
【七飯】11日夜からの大雨の影響で、北大北方生物圏フィールド科学センター七飯淡水実験所(町桜町2、山羽悦郎所長)で飼育するサクラマスなど淡水魚約800匹が死んだことが13日、分かった。同実験所によると、河川水を引き込むための取水管に大量の砂が入り、実験所への水の流れが止まったため。同実験所では、7月末の大雨でも泥が入り込み、大量の魚が死亡したばかりといい、今回と合わせて、飼育する親魚の約9割に当たる1400匹以上が死ぬ壊滅的な被害となった。同実験場は、鳴川から取り込んだ河川水を利用し、敷地内にある13のコンクリート池などでサケマス類などの淡水魚を飼育している。11日夜からの雨で、鳴川近くの取水管に砂がたまり、12日早朝に水の流れが完全に止まったという。職員らはチョウザメなどの一部の魚を避難させるなど対応に追われ、取水口近くのマンホールから砂を取り除いたり、清掃業者に依頼し池の汚泥もくみ上げたが、13日午後になっても泥がたまった状態が続いているという。
この影響で、秋の実習で採卵予定のサクラマス約300匹や、カットスロートなど計約800匹が死亡。中には15年以上飼育するイトウも含まれ、山羽所長は「愛着があった魚も多い」と肩を落とす。井戸水を利用し、水槽で飼育している実験棟内の稚魚類は無事だった。
同実験所では、1990年8月にも大雨の影響で、親魚約1200匹が死ぬ被害に遭ったが、これまで河川水の流れそのものが止まったことはなかったという。大量の酸素を必要とするサケマス類に与えた影響は大きかったとみらる。山羽所長は「砂で取水管が詰まることはこれまでなかったことで、どこから砂が流れ込んだのか、原因をはっきりさせないとならない。イトウが産卵可能になるまでは約6年、そのほかの魚も親魚となるまでは数年の時間がかかるだろう」と話していた。(今井正一)
「水圏生物学コース教育研究施設 七飯淡水実験所」というのがあるようで、このことが事実かどうか電話で確認してみることに・・・。
電話で確認すると、もう職員も入れ替わっているのでそのような事実はわからないとのこと。ただ、現在は流出しないように万全を期しているとのことで、どうも私が知りたいことよりは流出した事実を突き止められたくないというような意図で話をされていた感じがしました。
電話で出た方がちょっと困ってた感があったので非常に申し訳ないです。
いまさら何かを追及しようとは思わないのですがね・・・。
そんなこんなで記事を作っていると、読者の方からコメントが入りました。
初めまして。ブログ拝見させてもらっています。
2017年に渓流釣りされている方から聞いた話だと久根別川でイトウが泳いでいるとの事でしたよ
おおー、このイトウは流出したものか、ペリー以前からの固有種なのか非常に興味があります。仮に2010年に流出したとして7年間も生きているわけです。
これは久根別川ロマンですね。
ちなみに、「水圏生物学コース教育研究施設 七飯淡水実験所」のお電話に出た方に、仮にそこからイトウが流出したとして、DNA鑑定でもとからいた固有種と流出種との区別は可能かと質問したら「わからない」との回答でした。
どうも、警戒されてしまったみたいですね。(笑)
次回は、いよいよ最終章、謎の黒い物体に迫ります。
※2024/8/25追記、和食屋の店主に2010年以降に釣ったかを確認したところ、それよりずっと前だとの話でありました。函館新聞の記事中にあるように1990年8月にも台風の被害があったようです。和食屋の店主はおそらくその後であると言っていましたので、読者が2017年にイトウを見たというならば、1990年に流出した個体なら27年も生きていたということになります。あるいは繁殖を繰り返しているのかも知れません。
※2024/8/28追記、F様のYouTubeによると、イトウはかなり母川回帰性の強い魚とのこと。七飯淡水実験所は七飯の鳴川から取水して養殖していて、その鳴川は久根別川に注ぐ。もし、今もそのイトウがいるなら鳴川と久根別川の合流域とその周辺、産卵時なら鳴川でイトウの姿が見られるのではないだろうか。オスの婚姻色なら遠目でもわかるかもしれない。